救いの手

 

体が動かない。
 
自分の体が妙だということに気付いたのはほんの数秒前だった。
(どうして、なんで、こんなに疲れているんだろう)
体が動かない、というのはおかしいのかもしれない。
正しくは、動かしたくないのだ。
 
「喜八郎?」
いつまでも布団の中に引きこもったままの同室の友をおかしく思った滝夜叉丸が、布団を捲り上げながら言った。
それから、目を見開いておどろく。
「喜八郎、どうした?」
その声はまるで母親が怪我をした我が子を心配するように優しい。
汗ばんだ頬に手を当てると、綾部は気持ちよさそうに目を細めた。
「熱があるな。
 …蛸壺の中なんかで寝るからだ」
ため息ひとつ、滝夜叉丸はそう言うと頬に当てていた手を引こうとした。
しかし、それより早く、熱の篭った手が滝夜叉丸の手を掴み、もう一度頬に押し付けた。
滝夜叉丸はそれを拒みはしなかったが、また小さく息をつく。
「保健室に行こう、な?」
そういっても、綾部はふるふると頭を振るだけ。
常日頃も自由奔放だが、滝夜叉丸の言うことは比較的よく聞くというのに。
今日は不機嫌で我侭で駄々っ子で幼子のような綾部に、滝夜叉丸が三度目のため息をついたとき。
 
「おはよー。
滝くん、綾ちゃん、今日の実習学年合同だってー」
タカ丸がふたりの部屋へやってきた。
そして、すでに着替えを終えている滝夜叉丸と、今だに布団にくるまっている綾部を見て、「どうしたの?」問いかける。
 
「風邪です」
滝夜叉丸があきれたように言うと、タカ丸はあぁ、と納得したように苦笑した。
タカ丸は布団の傍に膝をつき、綾部の顔を覗き込んだ。
「保健室に行けというのに、聞かないんです」
片手を頬に押し当てられたまま、滝夜叉丸が横目で見ながら言うと、
タカ丸は困ったように小さく笑った。
 
「綾ちゃん、歩ける?
 歩けないなら先生呼んでくるから、辛かったら言って?」
タカ丸はへらっとしたいつもの顔で微笑んでいるのに、その声は芯があってしゃんとしている。
滝夜叉丸は、こういうときは年上らしいなぁとその横顔を見ながら感じていた。
それでも綾部は不機嫌そうに、眉をよせて頭をふった。
喜八郎、と滝はたしなめたが、タカ丸は相変わらずの表情で構わないと笑う。
「綾ちゃん、このままならみんな遅刻しちゃうよ。
 朝ごはんも食べられない。
 滝くんに迷惑かけるのなんて嫌でしょう」
綾部の柔らかな髪を撫でながら、じっと目を見つめたままタカ丸が言った。
その言葉に、綾部は滝夜叉丸とタカ丸を交互に見つめながら、掠れた声で
「歩けます」と呟いた。
 
 
 
「それじゃあ、失礼します」
「喜八郎、先輩に迷惑をかけるんじゃないぞ。
 温かい格好をして、今日は一日横になっていないといけないからな。
 あと、薬が苦いからと言って、飲んだふりをして捨てるなよ」
「大丈夫だよ、滝くん。
綾ちゃん、おだいじにね」
一連の事情を説明してから、心配そうに次から次へと小言を言っていく滝夜叉丸を
タカ丸がひっぱりながら慌ただしく保健室から出て行った。
綾部は、体が重くて返事はしなかったが、薬の件に関しては見破られたか、と舌を出した。
 
「綾部、今度からは蛸壺で寝たりしないでね」
そういって苦笑したのは六年生の善法寺 伊作。
新野先生が不在のため、今日は保健委員長である彼が保健室の番をしていたのだ。
その笑顔に、綾部は無表情のまま頷いた。
それに満足したのかどうかは知らないが、彼はまた微笑み、それから薬の片付け作業の続きを始めた。
外で一年生の元気な返事が微かに聞こえた。
 
 
(滝もタカ丸さんも三木も、もう実習かな……)
首を動かして窓の向こうを眺めてみても、そこから見えるのは無意味な青い空だけ。
昼間からこういう風にゆったり眠っていることなど滅多にないから、得をしたような勿体無いような。
本当なら蛸壺を堀にでも行きたいほど晴天なのだけれど、
生憎体が動かない、重い、痛い。
 
妙に心細く、熱だけが空っぽの体で渦巻く。
(1人は嫌だ…、誰か、ここにいて)
熱で蕩けそうな脳味噌が、寂しくて警報を出している。
だれか、だれか、と左手を宙に伸ばした。
それに応えてくれる手はないと、思っていても。
 
「どうしたの」
 
ふと、ひんやりとした低温の手のひらにその手を掴まれた。
顔をあげると、そこには手を握って綾部に微笑みかける伊作がいた。
「…離して下さい」
「え?熱あるときは、誰かに触れていたくない?」
きょとんとした顔でそういった伊作に、綾部は繋がれた手を解くことを諦めた。
伊作はそのまま綾部のとなりに落ち着いた。
 
(つめたい、のにあったかい…)
左手から誰か他の体温が流れてきて、それがひどく安心させてくれる。
 
 
「綾部」
手を握る人が、ふいに穏やかに名前を呼んだ。
 
「私は保健委員長だから、傷ついているなら癒してあげたいと思うし、救いたいと思う。
 だから、辛いことがあるなら言ってごらん、楽になるから」
伊作の柔らかく優しい、声と微笑。
六年生で保健委員長の彼が気付かないはずがなかったのだ。
この体の異変が精神的な疲労からでもあると言うことを。
 
風邪で弱っているのはいやだ。
弱気になるし、いつもならできることも出来ないし
いつもならしないことも、してしまう。
 
「先輩」
 
呼んでしまえば頼ってしまう。
知りたくもない、深く関わりたくもない人に。
それでも熱い喉から押し上げられた吐息と一緒に、言葉がするりと漏れていく。
 
「私は、我侭です。
 ずるくて狭くて弱くて、滝や三木やタカ丸さんを縛ってしまいたくなる。
 誰にも渡したくない、盗られるのが、怖いんです。」
 
ただぼろぼろと言葉をこぼしていた。
 
「苦しい」
情けなく声を上げていた。
 
「先輩、私病気ですか?」
 
綾部の声は掠れていて、弱弱しかった。
左手の力が強くなる。
ああ子供のようだと、後から後悔がついてくる。
 
手を振り払おうと手の力を抜くと、握る力が強くなった。
「それは病気じゃないよ、綾部、大丈夫」
真面目な顔、でも微笑みは消さず、伊作は答えた。
彼は器用な人なのかもしれない、と頭の片隅で思わせるような表情だった。
「人間には欲がある。
 だから人を選んで付き合うことは悪いことじゃない」
でもね、と彼は両手で綾部の左手を包んだ。
 
「綾部は自分を嫌わない人しか愛さない。
 それって勿体無いと思わないかい?」
 
そういった伊作は、まるで見たこともない神か仏のような、慈しむ笑み浮かべていた。
美しいとか格好がいいとかを越えて、神々しいとすら感じるような。
 
 
ああ、熱い。
 
体が動かない。
 
涙が出そう。
 
 
「なら、愛させてください」
あなたを。
 
天国まで引き上げて、
 
私を救って。
 
 
 
救いの手をつかませて!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
***
ミキティー出せなくてごめんなさい!
伊作先輩の存在が薄い…!(不運)
ここから綾→善になります!
綾部は風邪とか引くと弱そう。