黒の忍装束を身に纏い、城の陰を伝って中を探索する。
疑わしい密書があればそれ見つけるのが目的であったが、それらしきものは見当たらない。
存在しているかすら分からないものだし、やはりタカ丸に任せて会話から近況を知ることが一番の手だろう。
与えられた客間に、するりと屋根裏から降り立つ。
軽やかな着地、足音はしなかった。
その部屋に人影はない。
綾部は装束を脱ぎ捨てた。
闇に白い肌がぼんやりと浮かぶ。
日に焼けてもたいして色がつかない肌に、やはり少し男らしくないなと息をつき
それからタカ丸に買い与えて貰った目立つ着物を羽織る。
(まだかなタカ丸さん)
真新しい帯を巻きながらぼんやり考える。
まだあの人の髪を触れているのだろうか、そして触れられているのだろうか。
考えるだけでぶわっと肌が粟立つ。
嫌なことは考えたくない、でも嫌なくらい考えつくから怖い。
(なんか胸騒ぎ、する)
そう思うのはタカ丸のあの笑顔がいつもと異なるものだったからなのか。
暗がりでとても妖しく微笑んだように見えたからなのか。
彼がでまるで知らない遠い存在に感じたからだろうか。
(大丈夫、あの目にタカ丸さんは応えない…さっき言っていたもの)
帯をぎゅっと巻く。
身だしなみには気をつけるよう言われていたから、しっかり綺麗に。
忍務だから仕方ないのだけれど、早く学園に帰りたいと思った。
いつもどおりのよく知った笑顔が見たい。
知らない方がいい表情なら知りたくなどない。
(あ、れ ?)
綾部は足元に視線を落とし、それから目を見開いた。
忘れていたわけではないが脱ぎ捨てられた装束を見てはっきり再認識する。
これは忍務なのだ、忍の仕事なのだと。
忍たまであるから報酬はないが、これは与えられた仕事。
綾部はタカ丸の言葉を反復した。
「でも今は無償でなんか抱かれてあげない。 だってこの体はもう忍としてのひとつの武器だもの、ねぇ?」
それと同時に綾部は障子を引っかくように開いて、廊下を走った。
「タカ丸さん!」
綾部は再び障子の戸を開いた。
珍しく焦ったような綾部の叫び声に、振り返ったのはタカ丸だった。
あの男の隣に座っている。
綾部はぞっとした。
タカ丸の形のよい顎に添えられた、男の手。
男の目にはあの、艶かしい色が浮かんでいた。
「……喜八郎、」
呟きながらタカ丸は身を引いた。
それを物足りなそうに見つめ、殿は怪訝そうに綾部に目をやる。
「寝込んでいると言わなかったか?」
不機嫌そうな声だ。
どうやら綾部がいないことをタカ丸はそう説明していたらしい。
「ええ、……きっと夢見が悪かったんでしょう。
殿、俺これで失礼しますね」
名残惜しそうにタカ丸の腕を掴んだ男の手をごく自然な笑みで押し返しながら、タカ丸は言った。
それから髪結い道具一式を片付けて立ち上がる。
「喜八郎、部屋に戻ろう」
タカ丸の声はひどく優しい。
その声を聞いて、綾部は爪が食い込むほど握っていた拳を解く。
危ない、もう少しで殺気が出そうだった。
失礼しますと言いながら、タカ丸は綾部の手を取った。
障子を閉めるとき、呆然とした表情の男に、タカ丸がひとつ笑みを送ったのを綾部は見た。
それは見慣れない妖しく美しいものだった。
部屋につくまで、綾部は手を引かれながらずっと沈黙していた。
タカ丸もなにも言わない。
ようやく口を開いたのは部屋に着いたとき、戸を閉めると同時に綾部からだった。
「なにを、していたのですか」
障子の戸を閉めるカンという高く小さな音が目立って聞こえるくらい、綾部の声は微かだった。
綾部が顔をあげた。
睨むような目をしていたが、敵意のあるものじゃない。
昂ぶる感情を押し堪えているようなものに見えた。
タカ丸は一瞬それに圧倒され、それからふと目を伏せた。
「野暮なことだね」
ああこの人は一体誰だろう、薄く唇だけ微笑んでみせるこの人は。
と、気の遠くなるような馬鹿なことを考えた。
「綾ちゃんは、なんで来たの」
タカ丸はいつになく低い声で問いかけた。
もう笑っているのかよく分からない、綾部から見た彼の表情の歪み方は複雑だった。
いつもなら分かる、友人としての彼の感情や思考が全く読めない。
それが悲しかった。
「タカ丸さんが、」
息と同化しているような、微かな声。
タカ丸は耳を澄ました。
「あなたは忍としてならあの人に抱かれるだろうと思ったから」
無償奉仕じゃない、これは課せられた忍務なのだから。
タカ丸が別にそのような沙汰に狂おうが、肝心なところで自分は関係ない。
そう分かっている、理解しているはずなのに。
ぬるい涙が頬にこぼれ落ちた。
「綾ちゃん」
タカ丸はすっと目を細め、それから綾部の手を握っていた手を離し、その手で涙をぬぐった。
親指で優しく目の下を撫でてやる。
綾部の泣き顔は無表情に近く、大きく顔をしかめることはなかったが、見ていると悲しかった。
「ねぇ泣かないで」
「泣かせてるのは、あなただ」
妙にはっきり言い放たれた言葉に、タカ丸は苦笑した。
タカ丸の手が綾部の頬を優しく撫でる。
「そうだね、ごめんなさい。
でも俺は俺の仕事をちゃんとやりたかっただけなんだ。
そのためになら今日、あの人に抱かれてもいいと思ってたよ。
けど、」
タカ丸は困ったように眉を寄せて笑った。
(あ、不釣合いだ)
夜闇にはとてもじゃないけど似合わない。
綾部はタカ丸の随分久しぶりに見たような笑顔を見上げてそう思った。
「綾ちゃんが嫌がること、するの嫌だなぁ。
こんなことプロが言っちゃ駄目なんだろうけど、やっぱり綾ちゃんに嫌われるの、やだ」
子供みたいな口調で、それでも大人みたいな手つきで頬をなでながらタカ丸が呟いた。
年上なのにそう思えない、なのに時折痛いくらいそれを感じさせる。
(ああいつものタカ丸さんだ…)
綾部は頬を撫でる手を上から両手で包み込んだ。
夏の暑さに火照る頬と手に、タカ丸の思いのほか冷たい手が気持ちいい。
「あなたは髪結いとしてはプロでも、忍者としてはまだまだたまごでしょう。
だから、まだ、そんなことしないでください、お願いだから」
切実にそう願う。
(例えその願いが美化してあなたをみている私の我侭だとしても)
タカ丸は「わかった」と綾部に笑いかけた。
綾部は嬉しそうに小さく口元に弧を描いてみせた。
「ま、今日はもうその必要もなくなったしね」
付け加えて笑いながら言ったタカ丸の言葉に綾部は首をかしげた。
よく意味がわからなかったらしい。
タカ丸は頬に宛がわれていた手を綾部の頭に置いた。
柔らかい髪を撫でてやる。
細い髪が指に絡まる感触がやはり心地よい。
「近況は把握した。
おつかい完了だよ、綾ちゃん」
軽やかににっと笑うその顔。
この人はこうでなくちゃと綾部は内心呟く。
「早いけど帰っちゃおうか、こっそり」
綾部はその言葉にいいですねぇと返した。
(今はまだ見慣れない貴方の顔もこれからきっと見慣れていくでしょう。
それでもまだ待って、
私がもう少しだけ大人になるまでは)
***
タカ丸は話全部聞いた後に危うく殿に襲われそうになったんです。
そういうことせずとも情報はとれました。
髪結いとしては立派なプロだけど忍者としてはまだまだなので、ちょっとバランスが悪いタカ丸。
説明せねば読めないような文かくなってはなしですよねすみません。
ごめんなさいまだ続くんです…orz