兵助が目覚めたのは、死にもの狂いで学園に帰ってきた翌日だった。
重たい体を引き摺ってようやく学園の門を押したのは夜が明ける少し前で
右肩からの血が思ったよりも結構な量だったのか、
学園のしきりをまたぐと同時に糸が切れたかのように体が崩れ落ちた。
意識が飛んでいたので、そこから今までの記憶がない。
見慣れた自分の部屋の天井を見上げる。
身に纏っているのも血まみれの制服ではなく綺麗な寝衣に変えられていて、
右肩の傷にも包帯が巻かれていた。
保健室でちゃんと処置をしてくれたのだろう。
兵助は重たい体を起した。
背中に広がる重たい黒い髪が首に纏わりついてきた。
襖から白い光が通り抜けてくる。
その光を浴びながら、ぼんやり多分同級生達は今頃授業中なのだろうと考えた。
(タカ丸…)
もう帰ってきているのだろうか。
帰ってこれたのだろうか。
無事なのだろうか。
(それにしたって絶対に帰って来いなんて、俺がよく言えたもんだな)
兵助はぼさぼさになっている髪を自由に動く左手で掻きあげた。
回避できたはずの危機を自分で招いて、あげくのはて死を受け入れていたくせに。
随分勝手で理不尽な約束を押し付けてしまった。
それでも、
それでも声が聞きたい。
髪に触れる手を見つめたい。
あいつは約束は守る奴だと信じたい。
兵助が布団の中でぐっと拳を固めたとき、
「…誰だ」
障子の向こうに静められた気配を感じた。
兵助は低い声で威嚇する。
壁一枚向こうの気配は、おそらく忍務後で敏感になっていなければ兵助でも気付かないほど押し殺されていた。
いくら六年長屋の中とはいえ、ここまでほとんど完璧に押し殺す必要はない。
鋭い目でぐっと壁の向こうにいる何者かを睨むと、
ゆっくりと障子に灰色の影が映った。
背の高い、細い人影。
「…ばれるとは思ってなかったんだけどなぁ」
苦笑と共に聞こえたのは、よく知っているあの声。
ぶわっと熱い血の巡りが頭にやってくる。
兵助はぐらつく体で飛び起きて、もつれそうな足で走りよって、勢いよく障子を開いた。
「ただいま」
立ちくらみだろうか。
見上げたぼろぼろのタカ丸の笑顔に、頭がくらくらする。
「…おかえりは?」
目を嬉しそうに細めたまま、でも口元だけ拗ねたようにとがらせてタカ丸が言った。
顔にすすの汚れがついていて、髪もほどけていて兵助と同じようにぼさぼさだ。
でも、生きている。
呆然としながらほんの少しの微かな声で兵助が「おかえり」と言ったのが聞こえたのだろうか、
タカ丸は嬉しそうに微笑んだ。
「どうやって逃げてきたんだ」
タカ丸は重傷を負ってはいないものの、いくつも切られた傷があるというのに保健室にも行かず、
学園にたどり着くなりその足で兵助の部屋まできたらしい。
その話を聞いた兵助はタカ丸の前に向かい合うようにして座り、馬鹿な奴だと小言を言いつつも
水で濡らした布ですすで汚れた頬を拭ってやる。
タカ丸がくすぐったいと笑った拍子にゆれる髪から焼け焦げたような臭いがした。
制服もぼろぼろで何をやらかしたのか心配になって尋ねると、
タカ丸は気持ちよさそうに目を細めたまま、
「元作法委員長の置き土産をちょっとねー…」
と呟いた。
兵助はあの時懐から匂ったあの火薬の香の理由がわかり、あぁと相槌を打った。
今は卒業したあの元委員長がいつも愛用していた焙烙火矢は火薬委員会に寄付されているのだ。
おそらく無断でそれを拝借してきたのだろう。
この忍務に首を突っ込んできたこと自体タカ丸の勝手な行動だろうし、
「土井先生に怒られるぞ」と兵助が言うと、タカ丸は眉をよせて苦笑した。
「でもいいや、生きて帰ってこられたし」
タカ丸はそう言ってへなっと表情を緩ませる。
兵助はそれを眺め、気まずそうに目を逸らした。
「…お前まで巻き込んで、」
その言葉にタカ丸は驚いたようにきょとんと目を丸くして、やめてよとその言葉の先を遮った。
「謝んないで」と言って、それから呆れたようにため息をつく。
「あのねぇ、俺は巻き込まれたなんて思ってないから。
兵助くんに死んで欲しくなかっただけだよ。
それにこうやって生きて帰れたからもういいじゃない、そんなの。
今生きてるのだって、兵助くんのおかげだし」
「俺のおかげ…?」
それこそ心外だとばかりに兵助は顔をしかめた。
タカ丸はそれに笑いかけ「後向いて」と言った。
その言葉の意味が分からないままに兵助は言葉どおりタカ丸に背中を向けると、
タカ丸は兵助の背中に近づき、後から抱き寄せるような格好になった。
よくタカ丸が髪を弄るときにする体勢だ。
兵助の長い髪が、一束持ち上げられた。
「言ったでしょ、俺の好きにさせてくれるって」
嬉しそうな声が後から聞こえてきて、兵助は息をついた。
確かに言ったのだからなにも文句は言えない。
ため息と共にお好きにどうぞと背中を預けた兵助に満足したタカ丸は、兵助の髪に頬をすりよせた。
「あー…生きててよかった」
心底嬉しそうに髪に触れるタカ丸の言葉に、兵助は大げさすぎると苦笑する。
しかし、やはりタカ丸は優しい手つきで毛先を弄りながら、幸せそうに息をつく。
するりと指が通り、それがとても心地よい。
「俺、」
声をこぼしながら、タカ丸が無傷の左肩に顔をうずめた。
兵助の黒い髪、タカ丸の金の髪、明度差の大きなふたつが絡まり混ざり合っている。
「兵助くんの約束のおかげで、帰って来れた」
兵助ははっとして息をのんだ。
思わず背中が強張る。
(そんな言葉、言うなよ…ッ)
この先もずっと、約束という名目で縛り付けてしまいそうになる。
絶対に帰って来いなんて無責任な言葉を吐き出してしまいそうになる。
もう、いつ死んだっておかしくない学年になっているというのに。
「…ちがう、お前の実力だろ」
湧いてきた自己嫌悪の念を押し込めながら、兵助はタカ丸の言葉を否定した。
「わ、なに、褒めてくれてるの?
…でも、嬉しいけど違う。
分かってたんでしょ、分かっていたから俺に約束させたんでしょ?」
首元に擦り寄り、タカ丸はすっと脇の下から腕を通し、ゆるい力で兵助を抱きしめた。
なにを、なんて聞こうにも聞けない。
あの時タカ丸がなにを覚悟して助けに来たのかなど、火を見るよりも明らかだった。
「俺、兵助くんとの約束なら必ず守るから」
そう言ったタカ丸の声はしっかりと聞こえるのに、どこか、か細い。
「だから俺に、これからもずっと生きて帰れって言って」
「…」
「兵助くん、」
声がだんだん弱弱しくなっていく。
名前を呼ぶ声は、すすり泣く子供の息の音のようでさえあった。
反比例して腰にまわされた腕の力が少し強くなる。
内心、兵助はそんな声で名前を呼ぶなと毒づいた。
耳に残る低い掠れた声は、とてもじゃないが誰にも真似できないような甘い響きを持っている。
タカ丸は兵助が弱いことに気付いているのだろうか。
(しばられてもいいって言うのか)
(約束が重みにならないのか)
つんと、タカ丸の髪から火薬の残り香を感じた。
兵助はタカ丸の片腕をとった。
仕事道具なのに真新しい傷だらけのしなやかな手。
この手でこいつは自分の身を守りきれるのかと心配になる。
それでも、タカ丸は命がけで助けに来て、生きて帰ってきた。
こんな約束を必ず果たすなんて言葉、他の誰かが言うものなら鼻で笑っておしまいだろう。
しかし、
そこまでする男を、どうして信じられまいか。
「絶対に守るんだな?」
兵助はタカ丸の黄色い頭を見下げ、念を押すような強い声で問いかけた。
タカ丸の左手を微弱な力で手をにぎる。
それに応えて、タカ丸は細長い指を兵助のそれと絡めた。
自分よりも幾分古傷が多い指は、彼の今までの歴史のようで、タカ丸はそれに触れるのが好きだ。
左手の指同士がきゅっと強く絡み合う。
タカ丸は肩に埋めていた顔をあげ、こちらを見ていた兵助を見上げた。
「信じて」
ああ、またそういう声で断言する。
可笑しなもので、タカ丸の声で言われると、不確かなことさえ確信めいて聞こえるのだ。
(こういうのを惚れた弱みって言うんだろうか)
兵助は再び頭にくらくらと酔いしれるような感覚を覚え、どさりとタカ丸に背をもたれた。
仕方ないなぁと独り言のように呟いてから、先ほどより近づいたタカ丸の横顔に口を寄せ、
非対称の長い髪をひっぱりながら「信じてやるよ」と囁いた。
.おけま.
「じゃあご褒美に兵助くん頂戴ね!!」
「ばッ…好きにさせるのは髪だけだっつっただろーが!!」
「えぇー言ったっけぇー?」
「お前なんかぜっっったい信用できねぇ!!」
***
タカ丸信用度を上げて落とす(笑
でもちゃんとするときはちゃんとするんですよ!
兵助はタカ丸の声が好きなら嬉しい。
指も好きなら嬉しい。