夜の静かな空気の中に、
1人の激しい息遣いが密かに混じる。
「先輩の感じた顔、そこらの女の子より全然可愛い」
タカ丸の声はその忙しい息とは釣り合わず、いつものようにのんびりとしている。
それでも、その目はいつも以上に好色的な鋭さがあった。
兵助は漏れそうになる声を歯を食いしばってこらえる。
それでも息継ぎのたびにあふれるのはいつもより高い喘ぎで、
その声を聞くたびにタカ丸は意地悪く笑った。
「先輩わりと感度いいよね」
「…るさ…いっ」
見上げれば余裕顔の年上の後輩。
馴れた様子で首筋に口付けを落とす。
毒々しい赤い髪が頬を撫ぜた。
「ちょっと意外だなぁ。
久々知先輩ってわりとこういうの慣れてるんだ」
「授業でっ…これくら、い…っ!」
「ふうん、その時もこれくらい感じちゃった?」
薄暗い部屋の闇で、普段なら一見穏やかそうに見える笑みが一気に性悪の顔に変貌する。
兵助はその顔を思いっきり睨みつけたが、
タカ丸はまるで人を馬鹿にするような見下したような微笑を見せた。
「…あッ!」
内太腿を撫でる指の動きに思わず腰が浮く。
円を描くその感触は昂ぶった神経をさらに高揚させる。
猫のような目がひどくおもしろそうに細まった。
「すっごく、感じてる」
「うるさ…いっ」
「先輩素直じゃないね」
兵助が迫ってくるタカ丸のたよりない肩をギリっと力強くつかんで抵抗すると、
そういうとこもそそられちゃうなぁとほざく男の髪が指に絡まった。
「ねーえ、なにが欲しい?どうして欲しい?」
首をかしげるその顔、いつもならぶんなぐってやったのに。
なにがほしいかどうしてほしいか。
そんなのとっくに知ってるくせにわざわざこの口から聞きたがる。
こいつは性根が悪い。
「おねだりの仕方、教えてあげなきゃわかんない?」
こういうときだけ年上ぶって。
最悪だ、こんな男。
内心悪態をはきながらも、肩を掴んだ手はその身体を押しのけることができなくて。
見上げればそこには赤黒くなびく髪。
あぁ、今からこいつに食われてしまうのか。
悔しくて悔しくて、でも逃げ切れない快楽。
ぐっと歯を食いしばり、兵助はタカ丸を睨んだ。
「斉藤…ッ」
* * *
「おはようございます」
「あ、おはよー綾部」
廊下でばったり会った綾部はまたいつものように適当に髪を結い上げていた。
タカ丸は顔をしかめて、せっかくの綺麗な髪がもったいないと呟きながら、
無許可であるが綾部の肩をやんわり押して後を向かせ、
頭巾と紐をするりと奪って髪を下ろす。
綾部はなされるがままに突っ立っている。
どうでもいいと思っているのだ。
広がった髪をあつめる際、
タカ丸のその華奢な長い指先がほんの少し首の横を掻いた。
その感触はまるで細い刃物が横を通り過ぎたように鋭いくせに痛くは無くてどこか甘やかすような。
わざとかこの人とはと心の中で呟きながら、首をひねってタカ丸をちらりと覗くと、ほぉら前向いてと頬を押し返された。
「タカ丸さん」
「うんー?」
「…昨日もまたお盛んだったようで」
呆れたような声音でいわれ、
タカ丸は思わず一瞬手の動きを止めて目をほんのすこし口の端を引きつらせた。
「おやぁ、綾部に盗み見の趣味があったとは」
「冗談。
委員会の帰りに通るんです、あの空き部屋の前」
「あぁまだそんな時間だったっけ?」
くすくすと恥ずかしげもなしに笑うタカ丸に背を向け、綾部は息をついた。
この人はほんとうにしょうがない。
もうちょっと目立たぬ場所でとかせめてもっと声を抑えろとか、
頭に浮かんだ言いたいことは、もうすでに何度も他の人から言われているはずの苦情ばかり。
綾部はべつにこの人が誰を抱こうが誰と寝ようが知ったこっちゃ無かったが、
さすがにその情事の横を通り過ぎたとなれば後味が悪いというか。
その外見共々もう少し人目をはばかることを覚えればいいのに。
そうは思ったが、自分の一言二言でこの人の性格が変わることなどないし、
まあ多少の被害はあれどこの人のことが気に食わないわけではないので綾部はなにも言わなかった。
ただため息がもれた。
「なあに、綾部、俺のこと気にしちゃって。
あ、もし惚れたんなら俺、綾部のこと好きだから相手してあげるよぉ?」
「抱かれるのなんて願い下げです。
第一あんたは好きじゃない人だって抱くんでしょうが」
きっぱりと断られて、タカ丸は酷いなぁと笑ったが、綾部の言葉を不快に思っている様子はない。
むしろ嬉しそうに笑っていた。
「…でも気になったというのはまぁ、ほんとですよ」
「ん?」
綾部がそう呟いたのは、タカ丸が綾部の髪を束ね終えたのとほぼ同時だった。
上出来に結い上げられた髪がタカ丸の手からこぼれて落ちた。
「あなたが同じ人を何度も抱くなんて、初めてですから」
斉藤タカ丸という人は基本的には相手が誰であれ、気に入れば手を出すし求められれば応えていた。
しかし、相手にするのは一度っきり。
その逢瀬がどれほどすばらしくとも、タカ丸が関係を許すのは一度だけ。
あとはどれだけ迫られようと、ずるい笑顔で逃げるのみ。
忍者どうこうの前にいつか刺されるんじゃないかと心配なくらい、
この人はろくでなしだ。
そのことを知っている綾部からすると、
今回の相手であるあの先輩がいかに特殊なことか。
低いところから見上げてくる目線に向かい合って、
タカ丸は一瞬表情を固め、それからまた笑みを浮かべた。
赤錆色の髪の奥で、大きくて特徴的な目がくっと細められる。
「そうだね、俺らしくない」
らしくないよねぇと繰り返し呟くタカ丸はどこか寂しそうに見えた。
やっぱりこの人はしょうがない。
綾部は朝っぱらから3回のため息をつかせる男の赤い髪をひっぱって、
思った以上にあなたは馬鹿ですねと囁いた。
(その感情にしらを切り通すおつもりですか、タカ丸さん)
* * *
食欲なんかない。
それでもお残しなんかすれば後が恐いので、
残った焼き魚と白米を無理やり口のなかにかきこむ。
その後お茶でそれを流し込んで、ようやく胃に収めた。
だるい。
あいつに会うまでは知らなかったこの後をひく身体のだるさと痛みと、快楽。
昨日のことを思い出して重たいため息が出た。
「よっ兵助、い組は終わるの速かったのか」
「ん、ああ、今食べ終わったところ」
背後から聞こえた三郎の声に振り返えって見上げれば、
やはりそこには同じ顔(というか原型)の雷蔵もいて、
しかしもう1人の友人はいなかった。
「ハチはまた毒虫捜索だよ、大変だよね」
「またか…」
苦笑がもれる。
それでもなんだか妙に心苦しくて上手く笑えてる気にはなれなかった。
「しかもな、…」
言いかけた三郎がふと目を見ひらいて言葉を区切る。
その驚いたような顔がしかめっ面に変わるまで時間は変わらなかった。
「兵助」
三郎の右手の人差し指が俺の胸をさして、
それにつられて目線をさげる。
「っ!」
なんで、
「兵助!」
雷蔵の声がしたけど、俺の足は一目散に食堂の出口へ向かっていた。
後片付けとかそういうことは混乱した頭にはまったく浮かんでこなくて、
ただ、俺はあの赤髪を捜して走った。
あいつとのことは、誰も何も言わない。
知られてしまっているのかどうかも分からないけど、
できれば知られたくなかった。
だってあんな関係、おかしい。
好きなとき勝手にやってくるあいつに大人しく流されてるなんて。
(だから、知らないふりだと知っていてもそれに甘えていたかったのに!)
4年長屋のあいつの部屋まで走って、
たどりついたころにはそんな距離でもないのに息が乱れていた。
自分でも怒っているのか悲しいのか、
そもそもなんでここに来たのかもいまいちよく分かっていなかったけど、
「…久々知先輩?」
戸を開けると赤髪をゆらして斎藤が俺を振り返った。
きょとんとした表情、ふざけんな。
「…なんで……!」
なんでこんな痕を残したんだ。
左の鎖骨の下。
知らずのうちに付けられた赤いしるし。
今まで何度か抱かれたけれど、一度もこんなことしなかったのに。
そんなものがいる関係じゃないとお互いに暗黙の了解だったはずなのに。
なんで、
「なんで?」
斎藤が俺の言葉を復唱した。
そしてその口元をにぃっと歪ませて笑ったのだ。
* * *
いきなり部屋に訪れてきた先輩は、
今にも泣き出しそうな顔でぐっと眉を寄せていた。
その表情から感じるのは怒りと戸惑い。
震える唇から漏れたのは疑問の言葉で、
はて一体なんのことかと首をひねったが、すぐになにか分かった。
あのときの先輩はいっぱいいっぱいで気付いてる様子なかったし、
おそらく誰かに指摘されたんだろう。
「なんで?」
先輩の言葉を繰り返し、にっと笑う。
ゆっくり近づくと、反射的に久々知先輩は一歩後退した。
怒りよりも戸惑いよりも、恐怖?
一年生よりも忍者歴の少ないこの俺に?
ああ、それほど俺とのことがばれるのが恐いんだ。
まぁそりゃそうだろうね。
こんなのに好き勝手されあまつさえそれに流されているなんて、ねぇ。
俺は意地の悪い顔を浮べた。
「これに意味が欲しいの?」
心臓の上、丁度痕をつけた場所を指先でトンとつくと、
鍛えられているはずの身体が嘘みたいに簡単によろめいた。
すぐ後の壁にもたれこんだ先輩は大きな目をさらに大きく見開いて、
上向きの睫毛ときゅっと結んだ唇を細かく震わせていた。
「なぁんだ先輩、俺に惚れちゃったわけ?」
上手く笑えていたか心配だったけど、
俺の言葉を聞くなり顔を歪めた先輩を見て安心した。
笑えてる。
きっと最悪な男の顔をしてるはずだ。
パンと乾いた音と一緒にじんとした痛みを左頬に感じた。
「…ッ」
俺を睨んでから無言で綺麗な髪を翻した先輩は足音も立てずに走っていった。
やっぱりあの人は忍者なんだなあ。
微熱を帯びた頬はろくに痛くなかった。
平手打ちの一発や二発、
そこらの女の子だってもっとキツイの喰らわせてくれるっていうのに。
弱弱しく震えた体を思い出し、小さく息をつく。
だめ。
あの人は俺が惚れられていい人じゃないし、
俺が惚れていい人でもない。
(ほんと最悪だ俺)
生まれて初めて、俺は人を抱いたことを心底後悔した。
* * *
食堂にいく途中、鉢屋先輩と不破先輩に出くわした。
鉢屋先輩は、ああ明らかに怒ってらっしゃる。
基本的に相手がいる人には、
後々面倒だから手を出さない(向こうからきた場合はまた違うけど)から、
おかしいなぁー不破先輩には手を出していないから怒られる筋合いないのに、
なんて冗談っぽく内心呟いてみる。
はいはい、理由なんて分かってます。
きっと久々知先輩の痕に気付いたのはこの人なんだろう。
鉢屋先輩は俺を睨んで見上げた。
「あんた、なんで兵助なんだ」
「…なんのこと?」
とぼけたところでたいした足しにならないとは知ってるけど、
一応笑みを浮かべて言ってみる。
案の定鉢屋先輩は俺の胸座を掴んできた。
不破先輩も止める気はないらしい。
「どうして兵助に手を出した。
しかも一度じゃないだろう?」
「どうしてって、ねぇ?
だって久々知先輩、簡単に流されてくれちゃうんだもん」
袷を掴む力が更に強まった。
眼光がぎらりとするどくて、感じる殺気は鳥肌もの。
さっすが5年生、と内心茶化してみる。
(口には出さないけどね、ぶっ殺されそうだから)
俺は鉢屋先輩を見下げて唇に笑みを貼り付けた。
「案外向こうが抱いて欲しがってるんじゃない?」
ぎりっと奥歯を噛む音が聞こえた。
まぁここで俺を殴って大きな問題にするわけにもいかないだろうしね。
俺が鉢屋先輩の手首をつかむと、
力は込めなくてもすぐに胸座を掴んでいた手は離された。
俺に触れられることだってこの人からすれば嫌悪を感じる行為なのだろう。
「斎藤、これ以上兵助に関わるな」
「…心配しなくてももう抱いたりしないよ」
俺は笑った。(笑ってしまった)
鉢屋先輩が目を見開いて俺の顔を凝視するのを無視して、
それから2人の横を通り過ぎ食堂に向かって歩き出した。
背中に感じる鉢屋先輩と不破先輩からの視線を振り切るように廊下の突き当たりを曲がったところで、
思わず顔を手で覆った。
まずい、まずい、まずい。
上手く笑えてなかったかもしれない。
鉢屋先輩なんてとくに鋭そうだし、
もしかしたら
(だめだってばっ)
この感情は誰にも気付かれてはならないのだから。
ばれてしまうなんて許されない。
俺が許さない。
あの人の指が絡んだ髪、
赤いそれが視界に入るたびにわきあがる感情は今まで知らなかった。
与えてきただけで、自分からは求めようとしなかった。
こんな熱情、
こんなの一生、知らずに終えたかったのに!