突き当りを曲がって逃げていく赤い髪を視線で追いかけていると、
背中を軽く小突かれて、俺は隣を振り返る。
雷蔵は顔をしかめていた。
「僕は、あんな顔したって、兵助を泣かせる人は許せない」
眉を寄せて怒った声で、でもとても悲しそうな顔で雷蔵はそう言った。
そんなの、俺だって同じ。
だけど、
「雷蔵は先に戻って兵助の様子見に行って。
あとハチは放っておいても気付くだろうから言うなよ。
今下手にに慰められたってあいつも喜ばないだろうし、
雷蔵が側にいてやるだけでいい」
そういって優しく髪を撫でると、雷蔵はまだうかない顔だったが頷いた。
それから「僕はあの人、認められないからね」と言って、ろ組長屋へ向かった。
俺だってもちろん、長い付き合いの友を傷つけるような奴、認められない。
それに、ああいうのに(どんな意味であれ)盗られるのは気に入らない。
けど、兵助はあの男が自分に触れることを許してしまったんだ。
斉藤というのは遊び人だけど、無理やりなんて野暮なことはしない。
聞いた話じゃ、一度抱いたらもう同じ人は抱かないという。
それでも奴に縋る人は後を絶たないとも。
そんな男が何故、兵助を何度も求める?
そんな男に何故、兵助は何度も応える?
本人同士が気付いていないのかと思っていた。
兵助はあの痕に困惑していたし、今までずっと斉藤とのことも隠していた。
でも少なくともあの男は、気付いている。
自分のなかで兵助をそこらの自分を求めてくる奴らとは違う存在だと。
だから何度も求めるんだろうし、あんな顔だってするんだろう。
「…心配しなくてももう抱いたりしないよ」
そう言ったあいつは、斉藤タカ丸の名が廃るってくらい、遊び人の好かれる顔を情けなく歪めて笑っていた。
その言葉にどんな意味があるという。
未練たらたらで手放すのが惜しいくせに、
もうあいつは兵助から手を引くというのか。
関わるなと言えば、それで簡単に手を引くような奴だとは思っていた。
でも、
あんな顔をしたらそれが本心じゃないことも、
俺が言う前から腹括ってたことも分かってしまった。
そうなったら仕方が無い。
あいつの本心引きずり出してやろうって気になってしまった。
俺はいつになく急ぎ足で自分の部屋へ向かいだした。
* * *
おそめの昼食を済ませた後、
タカ丸は長屋の自室の前の廊下に足を投げ出して座っていた。
赤い髪が心地よい風にふわんと揺れて、頬杖を付くタカ丸の頬を撫でて流れる。
傍から見れば、能天気な男がぼんやり日向ぼっこをしてるだけに見えるが、
日向ぼっこというには気が重く、表情もずっと曇っていた。
「タカ丸さん」
ふいに聞こえた声に顔をあげると、綾部がこちらへ歩いてきていた。
「…なぁに?」
取り繕った表情で問い返せば、
綾部はタカ丸の目の前に立って大きな目で見下ろしてくる。
読み取りづらい表情はいつも通りだ。
「あなたが珍しくへこんでいるからからかいに来ました」
「悪趣味だなぁ」
薄く笑みを貼り付けたタカ丸から、綾部は一秒も視線を逸らさない。
「どうして、そうなんです?」
「なんのこと?」
綾部の主語のない言葉にタカ丸は首をかしげる。
けど、その唇に笑みが残ったままなので、本当にこの問いかけの意味がわかっていないのかどうかも分かり得ない。
「好いて好かれれば信じさせようと少しくらい思うものでしょう。
あなたはどうもそういうところが欠陥しています」
いつになく饒舌な綾部に、タカ丸は頬杖をついたまま笑みを深くする。
「…残念だけど、」
タカ丸は見下げてくる瞳を射るように見上げる。
しかし、毒々しい赤い髪がなびいて一瞬その顔を隠して、次の瞬間にはタカ丸はまた目を細めて笑っていた。
「綾部は俺にそこまで関心ないよ、鉢屋先輩」
名前を言い当てられた目の前の綾部の格好をした男は、
力を込めていたのだろう、大きくひとつ息をついて無遠慮にタカ丸の隣に座った。
綾部とよく似た髪色の鬘が風に舞う。
タカ丸はそれをきれいだなぁとぼんやり見つめていた。
「そうか、そりゃ残念」
「綾部は俺みたいなの眼中にないからね、友達ではあるけど」
くすっと笑えば、綾部の顔で不機嫌そうな表情をむき出しで見つめられて違和感を覚える。
もとにもどしてくださいよと言うと、その顔が一瞬のうちに見慣れた片割れさんのものに戻った。
見事なもんだと感心して、タカ丸は唇の端を吊り上げた。
「4年の制服なんて、どうしたんです」
「俺だって去年は4年生だった」
声もさっき聞いたばかりのいつもの鉢屋三郎の声で、その言葉にタカ丸はそりゃあそうだと納得して笑って頷いた。
「で」
「…はい?」
なにかを促すような三郎の目線に、タカ丸は首をひねる。
それも、また騙すように笑みを浮かべたまま。
やはり喰えない男だと、三郎は思った。
「あんたはなんでそうなんだ」
何が、とか、何処がとか。
聞くべきかと迷ったが余計苛立たせるのもいい加減、意地が悪いかと思い直して、
タカ丸は観念したように息をついてみせた。
* * *
「昔っからこうなんだよ、俺」
「……」
タカ丸がすっと目線を空に向けてそう話し始めると、
今度は三郎が頬杖をついてタカ丸をじっと見つめる番だった。
「子供のころから笑って愛嬌ふりまくのが身体に染み付いてさ。
そのおかげでおねえさま方には可愛がられたけど、
いつからだろうなあ……、体を交えることも商売のひとつみたいになってた。
客商売だから嫌われたら終わりでしょ?
だから、好きでもない人に愛してるって何度も言って、ただ、求められればそれに答えていた。
これ、俺の悪い癖なんだ」
ひとつ、タカ丸の唇からため息がこぼれおちた。
昔の嫌な思い出でも懐古しているのか、ちいさく眉をひそめる。
「でも心中させられそうになったり駆け落ちしようとか迫られたり、旦那さんが殴りこみに来たりして…そういう面倒ごとも増えたし、俺自身疲れちゃってさぁ……」
その言葉に、三郎は呆れて何もいえない、という風に息をついた。
タカ丸も馬鹿だよねぇと自嘲気味に笑う。
「上辺だけの『愛してる』も『貴女だけだよ』も、もう飽きちゃって。
だからこの学園に入る前に、いっそもう二度と俺んとこにこないように、 町の人は全員こっ酷く振ってさよならしてきたんだ」
自分自身にか、それとも自分に縋って乞うてきた昔の女に向けてか、
そういって薄ら笑いを見せるタカ丸は、ひどく冷めた目をしていた。
「でも癖って抜けないもんでさ、この学園にきてもまた同じこと繰り返しちゃって。
もう面倒だから一度相手してあげるだけでそれ以上はサービスしてあげなかったけどね」
肩をすくめてタカ丸はまたため息をつく。
未だ自嘲的な笑みが顔に貼り付けられたままで、形の良い唇がきゅっと歪んだ。
「こんな男、誰が信じられる?」
ようやく空のどこか一点を眺めていた目線が三郎を向く。
赤錆色の髪の間から覗けるタカ丸の双眸が強く三郎を射た。
遊び人というには似合わないような、やたらまっすぐした目をしていた。
「…お前が信じて信じさせればいいだろ。
たったそれだけのことだろうに、分からんな」
「分かんない方がいいよ」
そう言って困ったように笑うタカ丸は、自分で自分の首を絞めているような自虐的な苦しそうな目をしていた。
(変なとこだけ真人間なもんだから、余計面倒なんだ)
べつに三郎にタカ丸と兵助の間を取り持とうなどという気はさらさらない。
けど、目の前にいる斉藤タカ丸という男は妙に痛々しくて、思わず顔をしかめた。
もっと楽になれる方法、いくつもあるはずだ。
どうして自分を責めて嫌って、さらに人を信じられないのか。
「…兵助は、違うんだろう」
「鉢屋せんぱーい、俺のこと嫌いじゃなかったっけ?」
つい口からでた言葉に、揚げ足をとるようにタカ丸が笑みを浮かべる。
その顔は気に喰わなかったが、言いたいことは言わなければ気がすまない性分なのだ。
三郎は再びタカ丸の胸座を掴んで、睨むようにタカ丸を見る。
「兵助を泣かせる馬鹿で意地の悪い遊び人は嫌いさ。
でも、お前、兵助を信じさせろよ。
兵助はお前から手ェ出したんだろ」
久々知兵助という男は、自分から色に手を出すような馬鹿はしない。
真面目だから、忍者の三禁を律儀に守っていた。今までは。
だから、あんな狂った関係の幕を開けたのはこの男のはずだ。
ぐっと、三郎の手にさらに力が加わる。
だが、タカ丸を睨む目には不思議と殺意はこもってなかった。
タカ丸は三郎を見つめて小さく笑った。
「俺は先輩を泣かるよきっと。だからもう、会わない」
「…っ」
だから、どうしてそうやって諦めるのか。
それが兵助のためになるとでも思ってるのか。
三郎は奥歯を噛みしめた。
「もし久々知先輩が俺に惚れて、俺に会いに来たとしても、
その時はちゃんと振ってあげるよ。
最悪な男になって、意地悪く笑って突き放してあげる。
そしたら先輩は泣くかなぁ…、ねぇ鉢屋先輩、」
「その時は側にいてあげてね」
そう言って笑った男の顔に、思わず喉の奥が苦しくなった。
分からず屋め、馬鹿め、どうしてそんな言葉を言って泣きそうな面をしてやがる。
(余罪もその性格も、全部形振り構わず求めちまえよ!!)
そんなこと言うもんかと、三郎は唇を噛み締めた。
ここでそんな風にこいつの背中を押して、仲を取り持ったって意味がない。
そのあと上手くいく保証もないし、そんなの兵助の気持ちを無視している。
だから何も言わない、言うもんか。
「そろそろ他の子も帰ってくるから帰ったほうがいいよ」と言って、肩をぽんと叩いて立ち上がった男の赤い髪が視界の端で揺れた。
可笑しなことだが、肩に触れられたことに嫌悪感は抱けなかった。
ああどうしよう、雷蔵に怒られるかもしれないけれど。
(兵助なら、あの男を、救えるんだろうか)
場違いな考えが浮かんだ馬鹿な頭を抱え、三郎は重々しく息をついた。
* * *
斉藤と別れたあと、
部屋にいると雷蔵が急にきて、何をするでもなくずっと側にいてくれた。
雷蔵はずっと複雑そうな顔をしていた。
俺と斉藤のことは、もう隠すことは出来ない。
でも、なにも問われないことを言い訳に俺は何も言わなかった。
今三郎がどこにいるのか、とか、気になることはあったけど、
ずっと黙ったまま側にいてもらった。
ああ、いつからあんな関係始まったんだっけ。
そもそも、どうしてこんな関係が生まれたのだろう。
頭の悪い、でも愛想だけは良い、髪結いの年上の後輩。
斉藤タカ丸は俺にとってそれだけだった。
数回勉強を教えてやったくらいで、特に深い付き合いがあるわけじゃなくて、
基本的には委員会で顔を合わす程度だったじゃないか。
それが狂い始めたきったけは、
「好きだよ」
確かこの言葉だった気がする。
委員会が終わったあと、
ねぇちょっとだけと甘えた声で頼まれて、髪を触らせてあげたとき。
不意に耳元でこう囁かれた。
「先輩の髪、俺、好きだよ」
好き、という言葉を強調するような甘い声。
その時俺が感じたのは微かな、でも確かな嫌悪感だった。
「…あっそう」
「つれないなぁ」
けらけら笑う背後の男が妙にむかついた。
遊び人というのは聞いていたけど、自分がその使い古された手口でからかわれるというのは癪で、斉藤にとってはほんの暇つぶしの遊びだったのは分かっていたのに、俺は、むきになって答えてしまったんだ。
「そういうの、お前が言っても信用できないな」
素っ気無く言った言葉に、今まで髪を撫でていた指が止まったから、流石に言い過ぎたかと思った。
だから「悪い」と一言謝ろうと思って振り返って、俺は思わず目を見開いた。
そうだ、今思えば始まりはここだ。
目を細めて笑う斉藤の、その顔を見てしまったとき。
人好きする顔立ちを綺麗に、でもどこか歪めるように笑ったその顔に、
思わず目を奪われたそのとき。
幕は開かれた。
俺が始めてしまったんだ。
「…そうだよね、でも俺、先輩のこと、好きだよ」
そういって斉藤は俺の頬に華奢な大きな手を宛がって、
色を含んだ目で睨むように見つめて、
唇を無理やり押し付けてきた。
俺はそれに抵抗するのも忘れてしまって、ただ流されてしまった。
今思えばなんであの時殴ってでも逃げ出さなかったんだろう。
そうすれば、最初の言葉を今一度聞きたいと思っている自分を、知らずに済んだのに。
「兵助」
不意に隣から声をかけられて、目を見開く。
その拍子にぬるい何かが頬を流れるのを感じた。
まさかと思ったが自分でも気付かないうちに泣いていたのか。
みっともない、なんて女々しいんだろう。
雷蔵もそう思っているはずだと思って目をむけると、
意外にも雷蔵は薄く微笑むようにして優しい顔をしていた。
「…ねえ、僕は許せないよ。
兵助を泣かせるような人、許せない」
「雷蔵…」
「でも、あの人のことは、僕には分からない。
あの人と触れたこともなければ、ろくに話したこともない僕には。
けど兵助なら分かるよね、僕より、ずっと」
雷蔵に優しいのにどこか厳しい口調で言われて、思わず心臓が震えた。
そう、分かってるんだ。
斉藤が俺を見ていることも、
その目線を感じるたびに疼くのは身体じゃなくてこの胸なのだということも、
あいつが何度も求めるのは俺だけなのも、
気付けば自分がいつもあの赤い髪を捜していることも。
「…うん、分かってるよ、ほんとは分かってた」
それでも臆病な俺は、逃げられるのなら逃げ切ろうと思っていた。
分からないとか知らないとか、そんな言い訳で逃げようとしていた。
でも、今はそれが自分の首を絞めている。
もう、苦しくて、苦しくて、堪らない。
喉の奥が詰まって、俺はいつのまにか嗚咽を漏らして泣いていた。
雷蔵が俺の背中をさすってくれる。
こっそり、もう楽になりなよと言われている気がした。
いい加減この狂った関係に終止符を打って、楽になりたい。
そのために、俺はなにをすべきか。
そんなの分かってる。
(もう、)