日が落ちて間もない、夜が始まったばかりの時間。
月はまだろくに上がっていない。
薄闇な空を窓から覗きながら、俺は幾度ついたか知れないため息をまた落とす。
いい加減、決心しようとは思うのだけど。
目の前に置かれた鋏。
正座して髪結いの服も着て、その他諸々、準備は万端。
ただそれに追いついていないのは自分の気持ちだけだった。
これは彼の髪を切ったとき以来の葛藤だ。
視線を落とすと、肩からずっと下まで流れ、腰まで伸びた髪。
きらきらと煩い自己主張の激しい、と言われる金髪。
一応職業柄自分の髪にも気を遣っているから、
枝毛はないと自信を持って断言できる。
傷みやすい金髪をここまで良い状態で保ち、この長さまでにするのは大変だった。
しかしそれと同時に誇らしくもあったのだ。
彼が髪を切った日から代わりに伸ばそうと決めたこの髪。
彼が知らないところで死んでしまわないよう、消えてしまわないようにと願掛けした。
毛先を整える程度はしたけれど、それから一度も長さを変えてはいない。
ようはこれは俺が彼を、待つようになった時間の長さで、
だからこそ彼を待つだけではなく同じ立場へ、もっと近くへ、隣を歩いていこうと決めた今、
それは短く切ってしまうのがいいと、思ってはいるのだけれど。
やはりここでそれをとどめさせるのは髪結いの性。
もったいないとここまで長く伸ばす苦労をよく知っているわが身は、
髪を切るという決意を揺るがす。
それでも、それでも。
やはり男気とか覚悟とか、踏ん切りを付けたがっている自分もいる。
それが忍者としての性であるのか、ただの斉藤タカ丸という俺自身の素直な気持ちなのかは知らないけれど。
…ああでも、もしも兵助くんが長い髪が好みだと断言すればすぐに切るのをやめるだろうなと推測すると、
やはりただの、彼を好いている自分の本心なのだと気付く。
髪の好みについては何度か尋ねたことがあるけれど、
「どっちでもいい」とか「興味ない」とか、参考にならない生返事ばかりだった。
目線をさげると、それと同時に眩しい髪で目がくらむ。
一応、我ながら派手な色だとは自負している。
しかし意外とこの髪は役に立つのだ。
髪結いの仕事をしているとき明るい印象を与えるから、お客さんと話がしやすくなる。
綺麗ですねと言われることは単純に嬉しい。
忍者の仕事をしているときは囮になれる。
これはいざとなったら兵助くんを護れるから。
護るなんて、腕っ節じゃ未だに適わない俺の言うことじゃないんだろうけど。
ああそうだ。
ひとつ不便な点があるじゃないか。
ゆっくり髪を撫でながら、少し前の忍務を思い出す。
あのとき、この長い後ろ髪を引かれて敵に追いつかれた。
振り返りざまに反撃して喉元を掻っ切って逃げてきたけれど、正直危なかった。
それに血のついた髪は洗うのが大変だ。
そうだ、この理由でいい。
「忍として命を落としかねない原因となるから」
兵助くんにもそう言おう。
願掛けのことも内容は詳しく話していないから、あまり問いただされたくないけど、
これならもっともらしい理由だし、嘘じゃない。
そうとなれば覚悟を決め、鋏を握る。
大きく深くひとつ息をついて、よしばっさりいってしまおうと決心し、金の髪に鋏をいれかけた。
「なにしてんの!!」
その瞬間、それを制止したのはいつになく焦った大声。
いつもはたてない大きな足音をたてて駆け寄ってきて腕をつかまれる。
まだ鋏は髪に切り込んではいない。
「兵助くん…?」
俺が驚いて顔を上げると、それよりもびっくりしたような顔の彼は、
変わらぬ俺の髪を見て安心したように息をついた。
2日ぶりに会えた、会いたかった人。
いつもなら抱きついていたところなんだろうけど、お互い驚いて見詰め合うままだった。
どうしてそんなに焦ることがあるんだろう。
「なんで…、髪切ろうとなんかしたんだよ」
「なんでって、えっと」
あまりの剣幕に思わずさっき用意したはずの言い訳が声にならず、
視線を泳がせながらとりあえず笑みを浮かべて、
「やだなぁ、兵助くんってば髪を切るのに意味を求めたがるお年頃?」
とからかう口調で言うと、兵助くんはむっと不機嫌そうな表情をした。
あからさまにそうするものだから素直に謝ろうとすると、
それより前に前髪をくしゃりと撫でられ、
「馬鹿か。
失恋云々なら、俺がいるんだから無縁だろうが」
呆れたような物言いでそう言われた。
どうしよう、
あまりにも男前すぎて、
「今、思わず抱かれたくなったよ」
そう言えば、昔は可愛い可愛いと愛でていた顔がふっと笑って、
「抱いてやろうか」
冗談とも本気ともとれる表情でそう囁いた。
その声と吐息が耳元にこそばゆくて、身をよじらせる。
ああもう、こういうときばっかり余裕綽々なんだから。
昔はもう少し可愛かったのになぁとぼやけば、
既に首筋に埋めた顔を上げて、
そういうのが好みか?とまた笑われた。
馬鹿だねぇ。
「どっちだっていいよ。
あんたが好きなんだ」
同じように笑って、頭を抱きかかえながらゆっくり後ろに倒れこめば、
兵助くんは必然的に俺に覆いかぶさる体制になる。
首筋に一度、音を立てて唇を押し付け、それから顔を上げる。
短くなってからちょっとだけ癖毛がひどくなった髪は、それでもまだふわふわしてて気持ちがいい。
馬乗りになっている兵助くんを見上げて首に腕をまわし、
指先でその感触を楽しむ。
「男前なことを言うな。
抱かれたくなるだろう?」
「抱いてあげようか」
ふふっと笑みを零して言うと、真顔で「嫌だ」だって。
「やっぱり変わってない」
今でも兵助くん、可愛いもん。
大人になりすぎないでね、寂しいから。
一緒の速さで共に、隣にいて。
首の後から指を滑らせ、着物の下を這わせる。
体温をもった肌、しっかりした肩、流れ落ちる髪、俺を見る瞳。
兵助くんだね、兵助くんだ。
「おかえり」
待ってたよ、目を細めて笑うと、
ありがとうという言葉と共に唇を覆われる。
伝わる体温に身体が、心臓が疼く。
2日、たった2日がこうも恋しくて待ち遠しいなんて。
今まで一ヶ月以上会えないのを我慢していたのが嘘みたいだ。
それも全て、胸に残された赤い証がずっと主張を続けているからだった。
これが消えるまでに帰ると行った。
できない約束はしない人だと知っている。
だからすぐに帰ってきてくれると、またすぐに会えると、
そう思うだけで夜が来るのが楽しみでならなかった。
いつもなら勝手に待ちぼうけをくらったような気になって寂しさだけが募ることが多い日課も、あれからはやめた。
そんなことをせずともすぐに来てくれると知っていたから。
「ただいま」
唇を名残惜しくも離し、小さく息継ぎ。
それと同時に兵助くんは小さな笑みを浮かべてそういった。
低い声、声音は優しい。
鼓膜をくすぐるだけで全身が熱くなる。
心底惚れてるんだと今更ながら痛感してる。
「…髪、切るなよ」
「んっ…、どうして?」
胸元をはだけさせる手は止めないままの兵助くんに問いかけると、
兵助くんは目線をあわすことはせずに言う。
「長いと後ろから掴みやすいから、お前を捕まえていられる」
らしくない言葉だ。
冗談めいた、でもきっと本当の口調。
どうしようもなく鼓動は高鳴り頬を熱くなる。
「逃げやしないよ、出来ないよ」と言ったけれど、
兵助くんはそれでも嫌だと子供みたいに言い返す。
それから表情を隠すみたいに、何度も首筋に口付けた。
表情が見えないのが惜しいなぁ。
きっと赤い顔をしてるんだろうなぁ。
兵助くんが俺にこんな我が儘言うの初めてだもんね。
俺は笑みを浮かべながらその背に腕を回す。
笑みを浮かべただけで笑い声と上げたわけではないのに、
兵助くんは顔をあげずに「笑うな」と不満げに言った。
だって前はいい加減切れば?なんて言ったくせに、そんなに必死になるんだもん。
「可愛い」
兵助くん、髪は長いほうが好みなんだね。
と続けようとしたけれど、煩わしそうに口を塞がれてそのまま事を進められ、
それを声に出そうとしていたことは脳の中で熱に溶けて消えてしまった。
***
数年後兵助は余裕あるといいと(以下略)
久々知にタカ丸の髪を切るのをとめさせたかっただけです…
肝心なのは久々知は髪結い衣装のタカ丸を脱がしにかかってる点です。すごく私的に重要(自重)
今回はくくタカよりですが、だからといって受身ばかりのタカ丸さんでもない。
けど久々知が求めてるときはそれに答えるし、タカ丸が求めれば久々知も受け入れる。
そういう感じは4年前から変わらない。とかならいい。