急ぎ足で季節が変わり行き、ようやくやってきた春に孫兵が大喜びしているころ。
冬の間は暇だった委員会もそろそろ忙しくなるなぁと思いながら、廊下を歩く八左ヱ門は暇を持て余していた。
外は気持ちのいい晴天でせっかくだから兵助と鍛錬をしよう誘ったのに断られてしまったからだ。
話を聞けば、今日の1年は組は12人なんだとか。
土井先生からの苦情で、おそらく今からでかい一年生を引き取りにいくのだろう。
だから5年長屋の廊下を歩いて足を向かわせる先は、自分の部屋ではなくあの2人のところ。
暇だからといって部屋でひとり本を読んでいるような性質ではないから暇つぶしにはなるだろう。
(あーあ、退屈…)
ぼやきながら廊下を曲がると、あれ?
部屋の前の縁側でくっついている2人の影は、
「雷蔵、三郎?」
言いなれた名前を呼ぶと、庭に足を投げ出して座っている雷蔵がこっちを振り返った。
「あ、ハチ」
「なにやってんの、それ」
それ、と言って膝の上指をさすと、雷蔵は苦笑を浮べた。
「三郎眠いんだって」
雷蔵はそう言って膝の上の飼い猫、もとい同じ毛色をした三郎の前髪を優しく撫でる。
俺は雷蔵の隣に胡坐をくんで座り、滅多に見ることの出来ない寝顔を覗き込んだ。
仰向きになって雷蔵の膝を枕代わりにしている三郎は、すうすうと安らかな寝息をたてている。
三郎は気配にめっぽう鋭いからめったに人前(雷蔵はもちろん例外だけど)では深い眠りにはつかないというのに。
いつもへ理屈ばかり吐き出す口が今だけは大人しく半開きになっているからもの珍しくて、つい凝視してしまった。
「見るな金取るぞ」
「うひィっ!」
見つめていた矢先に目蓋を開いて大きな目が睨んできたものだから、思わず情けない悲鳴がもれた。
それに雷蔵がくすくす笑って、三郎は鬱陶しそうに息をついた。
「っ雷蔵!寝てるんじゃないのかよ!」
「僕は三郎眠いんだって、としか言ってないよ」
そういってにっこり笑う双忍の片割れは、ひょっとしたらこちらの方が性悪なのかと思わせる(なんにせよ性悪コンビめ!)
俺は一瞬跳ね上がった心臓をおさえながら、重ったるいため息をついた。
…ちょっと悔しい。
「もう春だねぇ」
雷蔵がしみじみと呟いた。
春の風が頬を撫でて咲き初めた花の香がどこからかやってくる。
「らいぞ」
「うん?」
「眠いなら寝ればいい、なんなら枕代わるぞ」
三郎はそう言ってぼうっとしていた雷蔵の頬に手を宛がう。
指先が輪郭に沿って、形を確かめるように優しく肌を撫ぜた。
雷蔵は三郎の言葉にきょとんとしたように目を見開いて、それから小さく笑う。
「ううん、いいよ。
こうやってるの落ち着くから。
三郎こそ眠っていいよ」
笑みを零して、同じように頬に優しく触れる。
三郎は日ごろの悪戯顔からかけ離れた、幸せそうな子供みたいな笑みを返し、ありがとうと呟く。
それから両目を閉じた。
「でも生憎、馬鹿左ヱ門がいるせいでおちおち眠れないんだよなあー」
「…うるせー」
三郎に悪態を返すのが一瞬遅れた。
つい見惚れてしまっていたから。
2人の間に流れる空気がこの春の木漏れ日みたいに優しくて柔らかくて穏やかだったものだから、
ああ、羨ましいと思ってしまったんだ。
いつだってあの人は俺を弄んで悪びれる様子もなく冗談ですまされない悪戯ばっかりして。
「ハチぃ」
眠そうな声に呼ばれてはっとすると、三郎が片目蓋を上げて俺を見上げていた。
三日月形につりあがった口元が裂かれて、ああまたいつもの悪餓鬼面を浮べる。
「6年生、さっき試験から帰ってきたって」
そういって三郎はひらひらと猫を追っ払うように片手をふった。
ああそう、そりゃあこれ以上ない俺をここから追い出す口実ですね。
立ち上がった俺の行く先を知っている三郎は、満足気に雷蔵に「おやすみ」と囁いていた。
相変わらず六年の長屋に来るのはほんの少し緊張する。
俺はひと息深呼吸して、薬品の臭いのこびり付いた部屋の戸を開けた。
「…」
そこの部屋の主はこちらを向かない。
結びあげられた、限りなく黒に近い暗褐色の髪が揺れることはなかった。
「…帰って来てたんですか」
「あ、うん」
それだけかよ。
卒業前の最後の試験に行って3日間も帰ってこなくて、やっと帰ってきてそれだけか。
思わず出そうになった文句は舌の上で転がしてのどの奥に押し込む。
文句を言ってもろくに聞く人じゃないし、かえって上げ足をとられてからかわれるのがオチだ。
「まあお座りよ」
3日間、一度も会えずに顔も見れなかったその人は、
ろくにこっちも見ないで薬箱を整理しながら素っ気無くそう言った。
誰かの手当てでもしてたのだろうか、それともどこか怪我でもしたんだろうか。
まあそんなことは後で聞けばいい。
俺はおとなしく、言われたとおりに腰を下ろした
べつにああいうのをする人じゃないって分かってるけど、
期待もしていなかったけど、
知っているけど、
(もとより愛情表現が歪んでいるっつーか、この人はとにかく性格が悪いから)
やっぱりちょっとは期待する。
帰ってきたら一番に会いに来てくれるかも、とか。
(実際は俺がこうして来ないと、きっと廊下や食堂でばったり出会うまで顔を見ることもなかったんだろう)
桜の咲くころになると、
またアンタはどこかへ行ってしまうけれど、
その時だってどうせ俺に会いに来てくれたりしないんでしょう。
「竹谷」
ふいに思いのほか優しい声で名前を呼ばれた。
女々しい思考に浸っていた俺がそれに反応するよりも早く、
ぽすっと、
先輩は正座した俺の足に頭をおいて寝転んだ。
びっくりした。
なんだよこの人、読心術でも使えるのかよ。
先輩は横向きになって俺の膝を枕にして向こうに背を向けて、はぁ、と息を落とした。
でっかい猫みたいだ。
「…なんですか」
つい拗ねたような声が出た。
丸めた背中と俺の膝の上でひろがる黒い髪が春の陽気に照らされて、淡い錆色に色を変える。
この人の髪が一見真っ黒に見えて、光が当たるとほんとうはもっと明るい色をしていることはずっと前から知っている。
俺が髪質どうこういうとタカ丸さんに説教くらいそうだけど、
このたいして綺麗じゃない髪質の、でもすごく綺麗な色をしたこの髪が俺は一番好き。
「んー、」
甘えるような声で喉を鳴らす、ほら、猫みたいに。
横を向いて俯いているせいで顔は見れなくて、今の俺にはこの声だけがすべて。
「会いたかったんだ」
それなのにその声で、アンタはそんなことをいう。
それなら会いに来てくださいよ。
アンタから俺に会いに来いよ。
俺が来るのを知ってるからってそんな意地悪しないでさ。
悔しいけどなんだか泣きそうになった。
寂しいんだろうか、俺は。
こんな人でなしの先輩でも、会えなくなることが。
なんで?
ふと、細い指が頬を撫ぜる。
目の下から、あふれそうになった色んなものを堪えるために噛みしめた唇の横、
震えてしまいそうな下あごまで、その指先が俺に触れた。
血の臭いはしない。
無傷で無事帰ってきたんだ。
聞かなくたって卒業試験に合格したってことは分かった。
いよいよアンタともお別れだ。
「ただいま」
身体をようやく仰向けに寝返って、
そう言って俺を見据える目はいつもみたいに意地悪く笑っていた。
もうほんのすこしでどこかへ行ってしまうくせに。
そしたらもう俺が焦がれて焦がれてどうにかなりそうになるまで会いに来ない気のくせに。
この性悪め。
人でなしめ。
知っているけれど、
「おかえりなさい」
あなたが好きです。
***
リクエストの黒伊竹で、鉢雷のほのぼのに憧れる竹谷です。
コウさん素敵なリクエストありがとうございました!!
春というと卒業の季節…
伊作先輩の卒業試験(余裕で合格、不運ならず)のあとということで…
竹谷はこのあと放置プレイされちゃうんですよね…!
黒伊竹はあんまり幸せそうじゃないといわえている(byコウさん)のでそれに便乗してみました。
竹谷は男前で寛大なオトメンとかでいいと思います!
伊竹なのに伊作先輩少なくてすみません…ふ、不運パワーですよ(殴)
鉢雷と竹谷かくのが楽しいです^^
黒伊作先輩は難しい…!
それなのに無茶振りしていただいて書いた伊作先輩目線はこちら。
壱万打リクエストありがとうございました!